少女よ、起きなさい        マタイの福音書9章23~26節

2022年1月16日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 先週は12年もの長い間、長血をわずらった女性の苦しみに注目しました。今日は自分の娘を失った会堂司の苦しみに思いをはせたいと思います。二人とも大変な苦しみと悲しみを味わいました。しかし二人には共通点がありました。二人ともその苦しみの中でイエス様にすがり、イエス様から救いを得ていったということです。そしてこの二人とも私たちの注目に値する信仰の持ち主でした。

【1】 会堂司ヤイロの信仰
 マルコ5章やルカ8章の平行記事を読みますと、この会堂司はヤイロという名前だったことがわかります。会堂司とはユダヤ教の会堂を管理したり、礼拝の準備をしたりする人で、敬虔なユダヤ教徒でした。
 このヤイロがイエス様の下に来てひれ伏し、イエス様に懇願して言いました。「私の娘が今、死にました。」 ヤイロの娘は12歳でした(マルコ5の42)。今までのヤイロにとって、娘の成長を見守ることが最大の幸せだったことでしょう。その幸せが今絶たれてしまったのです。しかしヤイロは希望をもっていました。「イエス様に来ていただいて、娘の上に手を置いてもらえれば、娘は生き返る。」 そんな希望にヤイロは生かされていたのです。
 マルコとルカの記事を読みますと、ヤイロがイエス様の下にやって来た時点ではヤイロの娘はまだ生きていて、「死にかけている」状態だったことがわかります。しかし、イエス様がその後、長血をわずらう女に対応されている時、ヤイロの家から使いの者がやって来て、ヤイロの娘が死んだとの知らせが届きました。
 ヤイロはその時、深く落胆するわけですが、イエス様はその時「恐れないで、ただ信じていなさい」とヤイロに語りかけました。イエス様のそんな励ましをいただいて、ヤイロはイエス様を信じることができたのです。
 マタイでは、これら一連の出来事が省略されています。事の詳細にマタイはあまり関心がありませんでした。マタイにとって大事だったこと、それはヤイロがイエス様を信じた、ということです。そのヤイロの信仰にマタイは注目しました。ヤイロはプライドも社会的立場も、人々からの評判もみな捨てて、娘の救いを一心に求めました。そんな娘に対する愛と、イエス様に対する信仰のゆえにイエス様にすがりました。その信仰をイエス様は受けとめ、応えてくださったのです。
 人はいつか必ず死にます。誰もが死に向かって歩んでいます。私たちもヤイロのように愛する者のために、熱心にとりなす者となろうではありませんか。 

【2】 イエスのみわざ
 ヤイロの懇願を受けてイエス様はヤイロの家に向かって動き始めました。長血をわずらう女がイエス様の後ろから近づいて、イエス様の衣に触れたのはこの時です。つまりヤイロの家に向かうイエス様の足は、この時ストップしてしまいました。この時、ヤイロはどんな気持ちだったでしょうか。
 その後、ヤイロの家に着くとたくさんの人々が集まっていました。職業的な「泣き女」たちや「笛吹く者たち」がいて悲しみを掻き立て、人々は泣き騒いでいました。イエス様はまずそんな人々を一掃されました。そして言われました。「その少女は死んだのではなく、眠っているのです。」 ここで語られた「眠る」とは「死」の婉曲的な言い回しではありません。イエス様は明らかに「死ではなく、眠り」と語っておられます。ヤイロの娘は死んだのではなく、文字通り眠っている、と語っているのです。眠っているだけなのなら、彼女はやがて目覚めるでしょう。でもイエス様のことばはそこにいた人々には理解できませんでした。
 イエス様は家の中に入り、少女の手を取られました。当時のユダヤ社会では死人は汚れた状態であると考えられ、死人に触ることは許されていませんでした。しかしイエス様はその少女の手を取られました。死んだ人間の力がイエス様に及ぶことはなく、逆にイエス様の力が少女の身体に及んだのです。
 その後イエス様は「少女よ、起きなさい(タリタ・クム)!」と言われると、少女は何と起き上がりました。彼女はベッドから起き上がり、さらに死から起き上がったのです。死者をよみがえらせるイエス様の力が明らかにされました。この出来事は人々に衝撃を与え、その地方全体に広まっていったのです。

【3】 むすび:内村鑑三の復活と再臨の信仰
 内村鑑三が娘ルツ子を病気で亡くした時、ルツ子は女学校を卒業したばかりでした。内村が深い悲しみに沈んだことは言うまでもないことです。しかし、内村はこのルツ子の死をきっかけとして復活と再臨の信仰に生かされる人になりました。内村はその後「我等は四人であった」との詩を書き残しました。
 「我等は四人であった。而して今尚四人である。…三度の食事に空席は出来たが残る三人はより親しく成った。彼女は今は我等の懐に居る。一人は三人を縛る愛の絆となった。…主が再び此地に臨り給う時、新らしきエルサレムが天より降る時、我等は再び四人に成るのである。」
 愛娘の死という深い悲しみの中で内村がすがったのはイエス様でした。そしてイエスにあってルツ子はよみがえる、との希望を与えられました。再会の日を待ち望む者となりました。
死を超えたところにある希望は、イエス様にあります。イエス様に信頼し、この希望に生かされる者となりましょう。