神は私に笑いを下さいました       創世記21章1~7節

2021年9月5日 飯能キリスト聖園教会      礼拝説教要約(若井和生師)

 「神は私に笑いを下さいました」とのサラのことばは、とても素晴らしいことばです。自分の中で作り出すのではない、神様が私たちに下さる笑いがあることに、私たちは気づかされるからです。それはどんな笑いなのでしょうか。

【1】 サラの笑い①:子どもが与えられたことゆえの笑い
 サラはなぜ笑ったのでしょうか。それは「主が約束したとおりに、サラを顧みられ、告げられたとおりに、サラのために行われた(1)」からです。主は何を約束されたのでしょうか。それはサラに男の子が生まれる、という約束です(18の10)。神様は約束通りに、サラに男の子を与えられました。
 それは今までの苦しみが全部忘れられてしまうくらい、大きな喜びだったのではないでしょうか。サラは今まで本当に苦しんできました。長い間、族長の妻であるのに、子孫を残すことができませんでした。それはサラにとって大きな精神的苦痛だったのです。
 そこでサラは、自らの女奴隷ハガルを夫アブラハムに与えて、子を授かろうと考えました。その結果ハガルは身ごもりサラの望んだ通りになったのに、そのハガルから今度は軽く見られてしまうという屈辱も味わいました。
 子がないままに年老いてしまった自分に関して、サラは「年老いてしまったこの私に、何の楽しみがあるでしょう」と語っています(18の12)。当時のサラにとっては何の楽しみもない、そして笑うこともない日々だったのです。
 しかしサラは身ごもり、アブラハムに男の子を産みました。それによって、族長の妻としての責任を果たすことができました。そして生まれてきた息子に「イサク」と名づけました。「彼は笑う」という意味です。イサクの愛らしい笑顔を見て、サラの顔にも笑いが生まれました。神様がサラに笑いを下さったのです。
 神様は約束を必ず守る方です。聖書の約束はすべてイエス・キリストによって実現されました。よって私たちはこの方に信頼することができます。この方が私たちにも笑いを下さるのです。

【2】 サラの笑い②:主に顧みられていることゆえの笑い
 サラはなぜ笑ったのでしょうか。もう一つの理由があると思います。それは子どもが与えられる以前に、神様がサラのことをいつも顧みられていたからです。イサクが与えられたことによって、その事実を知らされました。
 今までサラは、自分がいつも孤独であると思い込んでいたと思います。誰にも理解されない苦しみを味わってきたと思います。夫アブラハムにも理解してもらえず、神様にも冷たくあしらわれていると感じてきました。
 ハガルの件で怒りを爆発させた時、サラはアブラハムにこのように言いました。「私に対する横暴なふるまいは、あなたの上に降りかかればよいのです。(16の5)」。サラの感情が爆発した激しいことばです。この怒りのことばには、辛い自分の気持ちを夫にも理解してもらえないサラの悲しみが、込められているように思います。
 また神様に対しても「主は私が子を産めないようにしておられます」と語っています(16の2)。「自分が子を産めないのは、神様がそのようにしているからなのだ」と解釈し、神様に対しても複雑な気持ちをサラが抱いていたことがわかります。このようにサラは長い間、誰にも理解してもらえない孤独と苦しみを味わい続けていたのです。
 しかし、イサクが与えられた時に初めて気づかされました。神様はいつもサラとともにいて下さいました。一人ぼっちだと思っていた時も、神様はいつもサラのことを顧みて下さっていました。そして時かなって主は約束を果たして下さいました。すべてはこの日、この時のためでした。今までずっと変わらずに神様が自分を愛し続けて下さっていた事実に、この時、サラは気づかされたのです。
 それはイサクが与えられたこと以上に大きな喜びだったことでしょう。サラは言いました。「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、わたしのことを笑うでしょう。(6)」 今までは人に笑われることが嫌で、そのことを恐れて、人に対してひたすら心を閉ざしてサラは生きてきたのではなかったでしょうか。そのサラにとって今では、人に笑われることさえ、喜びの一部であるかのようです。喜びの大元を与えられたからではなかったでしょうか。まさにそれは、神様がサラに下さった笑いだったのです。

【3】 苦しみからの救いではなく、苦しみの中にある救い
 私たちに神様から与えられている笑いとは、一体どんな笑いでしょうか。状況が好転したからでしょうか。それとも願いがかなったからでしょうか。つまり、苦しみから解放されたからなのでしょうか。それとも、主が顧みて下さっていることゆえの笑いでしょうか。
 聖書が私たちに約束する救いとは、苦しみからの救いではなく、苦しみの中にある救いです。状況が変化したからの喜びではなく、あらゆる状況の中にも変わらず存在する喜びです。孤独の時も、苦難の時も主はそこにおられます。そのためにイエス様はこの地上に来られ、私たちのためにあらゆる苦しみを体験されたのです。
教会が、そのような神が下さる笑いであふれる場所でありますように。私たち一人ひとりが、神様の深い顧みを共に覚えることができますように。