主の山には備えがある          創世記22章1~14節

2021年9月12日 飯能キリスト聖園教会      礼拝説教要約(若井和生師)

【1】 試練
 「これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。(1)」 神様がアブラハムを試練にあわせられたことがわかります。それはどんな試練だったでしょうか。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを…全焼のささげ物として献げなさい(2)」という試練です。息子イサクを全焼のささげ物として献げるとは、イサクをいけにえとして祭壇の上でほふり、火で焼いて神に献げるということです。
 何というむごい命令でしょう。何という無茶で残酷な指示でしょう。親が子どもを殺すなどと言う、残酷なことを神様はなぜ命じられるのでしょう。私たちであるならば躓いてしまうような命令だと思います。
 ところが驚きなのはアブラハムの反応です。アブラハムは翌朝早く起きて、準備をした上で二人の若者と一緒に息子イサクを連れて出発し、神がお告げになった場所に向かって行ったのです。神様の命令にそのまま従ったのです。
 このような信仰を、人は「盲目的な信仰」と呼ぶのではないでしょうか。しかし、この時のアブラハムの心境について、へブル人への手紙11章には次のように記されています。

「信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。…彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。(17~19)」

 アブラハムは仮にイサクを献げても、神様はイサクを、死者の中からよみがえらせることができる、と考えました。つまり、神様にとって不可能なことは何もなく、神様は必ず最善をなして下さると信じたのです。アブラハムはそのことを、この時まで繰り返し学んできました。神様についてアブラハムに理解できないこともたくさんあります。しかし、主に従う者に主は必ず応えて下さること、最善を為して下さることをアブラハムは信じたのです。よってこれは神に対する盲従ではなく、神に対する信頼でした。
 私たちの神様は私たちにも試練を与える時があります。そこで私たちに求められていることは主に従うことです。試練の意味について、私たちにわからなくても、私たちはそこで主に信頼し従っていきたいと思います。

【2】 主の山には備えがある
 モリヤの山に向かう途中、イサクは言いました。「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。(7)」 その時のアブラハムは、胸が張り裂けるような思いだったのではないでしょうか。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ」と答えましたが(8)、「お前が、その羊なのだよ」とはとても言えませんでした。神様の命令に従順に従いましたが、アブラハムは心の内で、本当に苦しんでいたことがわかります。
 そのままモリヤの山に到着し、アブラハムは祭壇を築き、イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せました。そして手を振り上げて刃物で息子を屠ろうとしました。その時、天からの声が聞こえてきたのです。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。(12)」
 この瞬間にアブラハムに与えられた試練の意味が明らかにされました。それは、アブラハムが本当に神様を恐れているのか。主を第一としているのか。そのアブラハムの信仰を明らかにするための試練だったのです。その時のアブラハムにとって息子イサクは、すべてでした。自分のいのちよりも大切なものでした。そのイサクよりも神様を第一とするのか。そのアブラハムの信仰が試されたのです。
 アブラハムはイサクを殺しませんでしたが、しかし、最も大事なイサクを神に献げました。そのイサクを神様はアブラハムに返して下さいました。さらに、一匹の雄羊をイサクの代わりのささげ物として用意して下さいました。アブラハムはその場所を「アドナイ・イルエ」と呼びました。「主の山には備えがある」との意味です。信仰をもって主にすべてを献げる時に、主は最善をなして下さること、最高の結果を用意して導いて下さることをアブラハムはこの時学んだのです。

【3】 結び
 神様は私たちにも、一番大事なものを主に献げなさい、と語っておられるのではないでしょうか。私たちの手のひらの中で握りしめている物、決して離すことができないでいる物を主に献げなさい、と主は命じておられるのではないでしょうか。それはお金でしょうか。趣味でしょうか。家族でしょうか。子どもでしょうか。仕事でしょうか。健康でしょうか。それらはみな大事なものですが、それゆえに、神様に従いきれない原因になっていないでしょうか。神様は私たちが何を第一にしているのか、私たちの心の王座を何が占めているのか、試されることがあるのではないでしょうか。
 主の山には備えがあります。主は自らを喜んで献げる者に豊かに応えて下さいます。試練の中でも主に喜んで従っていく者となりましょう。