新しいぶどう酒は新しい皮袋に     マタイの福音書9章14~17節

2021年12月26日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

【1】 花婿が一緒にいる間
 イエス様が取税人たちや罪人たちとともに食事をしている様子を見て、まず戸惑いと不満を覚えたのはパリサイ人たちでした。しかし、イエス様に対する戸惑いと不満を覚えたのは彼らだけではありませんでした。バプテスマのヨハネの弟子たちもそうだったのです。彼らはパリサイ人たちとは別な意味で、イエス様に対する不満を覚えました。
 彼らはイエス様に言いました。「私たちとパリサイ人はたびたび断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか。(14)」 当時のユダヤ社会において断食は最も敬虔な行為として認識されていました。敬虔なユダヤ人たちは、毎週二回、月曜日と木曜日に断食をしていたそうです。もしかするとその日は、断食の日だったのかもしれません。それなのに宗教的な指導者であるイエス様が弟子たちに断食を勧めない様子を見て、彼らはいぶかしく思ってしまったのです。
 そんな彼らに対してイエス様はおっしゃられました。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか。しかし、彼らから花婿が取り去られる日がきます。そのときには断食します。(15)」
 イエス様は断食という行為そのものを否定しているわけではありません。断食の大切さはイエス様もわかっておられます。イエス様がここで主張しておられるのは、今はその時ではない、ということです。やがて花婿が取り去られる日が来ます。そのときには断食します。しかし、今はその時ではありません。なぜなら花婿が一緒にいるからです。婚宴の席で花婿と一緒にいる間に断食する人はいません。断食は婚礼の場にはふさわしくないからです。
 イエス様の話より、イエス様がともにおられることを喜ぶことが、私たちの信仰であることがわかります。私たちにとって信仰とは、「敬虔な生活」という形式に合わせることではありません。イエス様とともに歩む喜びの生活です。信仰者としての私たちの歩みが、クリスチャンらしくなるための形式的なものになっていないでしょうか。喜びが義務に、礼拝がおつとめに、奉仕がお仕事に変わってしまうことはないでしょうか。

【2】 新しい皮袋
 私たちの陥りやすい傾向を指摘されるために、イエス様はさらに二つの譬え話を語られました。一つは、真新しい布切れで古い衣に継ぎ当てをする譬え、もう一つは、新しいぶどう酒を古い皮袋にいれる譬えです。これら二つの譬えは同じことを伝えています。それは古いものと新しいものとを一緒にしてしまうことの危険です。古いものを新しいものに取り換えなさい、ということをイエス様はここで教えておられるのではありません。イエス様による新しい教えを、ユダヤ教の古い価値観で受け止めることはできない、ということを教えています。
 真新しい布切れで古い衣に継ぎをしてしまうと大変です。新しい布は洗濯すると縮みますので、結果的に古い衣を破ってしまいます。また、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れても大変です。ぶどう者の豊かな発酵力によって、古い皮袋は張り裂けてしまいます。結果的に両方とも台無しになってしまうのです。
 イエス様によってもたらされた新しい福音は、新しい心で受け止めなければなりません。古い生き方を温存したままで福音を受け入れてしまうと、それは福音も、自分自身もその両方をダメにしてしまいます。
 私たちは欠けや破れを自らの内に意識する時、どんな行動をとっているでしょうか。自分で取り繕っているのではないでしょうか。そんな欠けや破れを人に見られたくなくて自分の力や努力で繕ったり、覆い隠したりしているのではないでしょうか。クリスチャンらしく振舞うことで、クリスチャンとしての体裁を整えようとしているのではないでしょうか。
 しかしそれでは苦しくなってしまいます。自己欺瞞に陥ってしまいます。喜びがなくなって行き詰ってしまいます。クリスチャンであっても、そんな苦しい信仰になってしまうことがあるのです。
 
【3】 福音がもたらす喜び
 花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができません。花婿が一緒にいるからです。つまり、彼らの喜びは花婿が一緒にいることです。もし花婿がいなければ、そこに喜びはありません。つまり彼らの喜びの源は花婿です。自分自身の中に喜びの原因があるのではないのです。
 同じように私たちの喜びの原因はイエス様です。イエス様がともにおられることが私たちの喜びの出発点です。私たちの内に喜びの出発点があるのではありません。どんなに自分でがんばって解決策を見出そうとしても、うまくやれる方法を探しても、そこに本当の喜びはありません。
 主がともにおられるとどうなるのでしょうか。悲しむことができません。自分の心の汚れも、醜さも、イエス様が全部受け止め赦してくださるからです。自分の欠けも破れも、全部イエス様が癒してくださるからです。イエス様がともにいる限り私たちは悲しむことができないのです。たえずそこには喜びがあるのです。
 2022年はどんな一年にしたいでしょうか。イエス様がともにいる喜びを豊かに味わう一年となりますように。