人としての姿をもって現れた主    ピリピ人への手紙第一2章6~11節

2021年12月19日 飯能キリスト聖園教会 クリスマス礼拝説教(若井和生師)

 クリスマスおめでとうございます。イエス・キリストのご降誕を皆さんとともにお祝いできることを感謝します。イエス様がこの世にお生まれになったことにはどんな意味があるのでしょうか。ピリピ書2章のみことばから学びましょう。

【1】 イエスのへりくだり
 第一に、イエス様は神としてのあり方を捨ててくださいました。2章6節には「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えなかった」と、記されてあります。神の御姿であられる方が、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、それを捨ててくださいました。
 私がフィリピンで生活していた若い頃、マニラのスラム街に住む知り合いの家に一泊泊めていただいたことがあります。一日泊まる分には刺激的でよい経験でしたが、さすがにそれまでの生活を捨てて、そこに住みたいとは思いませんでした。私たちは自らの快適な生活を捨ててまでして、劣悪な環境に住もうとは思いません。しかし、キリストは天の御国におられる王であられたのに、その立場を捨てられないとは考えませんでした。いや、すべてを捨てて、この世に下って来られたのです。
 第二に、イエス様は人と同じようになられました。7節には「ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました」と、記されてあります。キリストは富んでいたのに貧しくなられ(Ⅱコリント8の9)、仕えられる方だったのに仕えるしもべになって下さいました(マタイ20の28)。神であられた方が人となられたのです。
 しかも単に人間と同じになられただけではありません。その先があります。「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました(8)」。イエス様は生まれた時から、十字架で死なれることが定められていました。その定めにひたすら従った人生でした。つまり、イエス様は死ぬために、この世に生まれてきたのです。
 神であられた方がそのあり方を捨てて、人となって下さいました。しかも人の罪を背負ってさばかれるために十字架にまでかかって下さいました。何というへりくだりでしょうか。

【2】 私たちが一つとなるため
 そもそもパウロはなぜ、へりくだりのキリストの姿をここで紹介したのでしょうか。それはピリピの教会の中に不和と不一致があったからです。特にユウオディアとシンティケという二人の婦人たちの間に、深刻な対立が起こっていたようです(4の2)。人間のもつ利己的な思い(自己中心)と虚栄がその原因となり、人々が自分のことだけを考えて、他の人のことを顧みなくなっていたのです。
 おおよそ人の集まる所には必ずこの不和・不一致の問題が起こります。それは誰もがみな自己中心で、自分の考えや価値観を貫きたくなってしまうからです。
 世界中で蔓延するコロナ・ウィルスの流行の陰にあって、もっと深刻でもっと恐ろしいウィルスが、拡散し蔓延しているのではないでしょうか。それは自己中心という名前のウィルスです。様々な規制と制約が課される中、分裂と分断が各地で引き起こされています。思いどおりに進んでいかない状況の中、人々はストレスと不満を募らせ苛立っています。この社会は、人が人を信頼できない冷たい社会になっているのではないでしょうか。
 そんな中にあって私たちは過酷な競争に晒されています。時に人を犠牲にしたり、踏み台にして、私たちは上にのし上がろうとします。私たちは皆、生まれながらにして上に上に上り詰めたい欲求を抱え持っています。その性質から私たちは離れられません。そのような生身の人間の姿が今、露骨になってきています。そしてその影響から教会も完全に無縁でいることはできません。どうすればよいのでしょうか
 それは私たちのためにへりくだられたイエス様の思いを、私たちも自分の思いにすることです(5)。そのためにこの方に注目し、この方を信じ受け入れなければなりません。その時に私たちは主を賛美する者に変えられます。キリストの大きな愛を経験し、その愛によって互いに愛し合い、仕え合う者となります。そのようにして主を中心として一つとなるのです。

【3】 結び
 聖歌136番の歌詞のように、イエス様は「みかむりをも捨てて、世に降って」来られました。しかしそのように人に仕え、人を救うために来られた救い主を、「ただの一間さえも開けて迎える家」はありませんでした。この世の冷たい現実をイエス様は生まれながらにして肌身に感じられました。わずかに羊飼いたちと東方の博士たちが、この救い主と出会って、神を賛美する者に変えられました。
 このクリスマス、私たちはこの方を拒んで、自分の生き方に固執することがありませんように。自分の考えや自分の立場を貫いて人を排除することがありませんように。救い主を心にしっかりとお迎えし、私たちを内側から変えていただきましょう。へりくだりの主キリストの思いを、私たちの思いにさせていただきたいと思います。仕えられる者ではなく仕える者となろうではありませんか。