罪人を救うために        テモテへの手紙第一1章15~16節

2021年12月10日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。            テモテへの手紙第一1章15~16節

【1】 キリストがこの世に来られた目的
 今年のクリスマスを皆さんとともにお祝いできることを感謝します。クリスマスとは、救い主イエス・キリストがこの世にご降誕されたことのお祝いですが、イエス様は何のためにこの世に来られたのでしょうか。聖書には「罪人を救うため」だったと記されてあります。イエス様はこの世に来られて、嵐を静めたり、病気を癒したり、悪霊を追い出したり、人々の友となられたりしましたが、それらが一番大事な目的ではありませんでした。罪人を救うこと、これが一番の目的でした。その目的のためにこの世に来られたのです。
 この箇所でパウロは「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であると断言し、さらに、そのまま受け入れるに値すると確信をもって語りました。はっきりと迷いなく語りました。これがパウロの個人的な体験だったからです。 
 それに続けてパウロは「私はその罪人のかしらです」と語りました。明確な罪意識を彼が持っていたことがわかります。確かにかつてのパウロはキリスト教会に対する激しい迫害者でした。以前のパウロは「神を冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるう者(1の13)」でした。あのステパノの殺害の時にも、彼はその行為に同意する者でした。大変な罪人だったのです。
 同時にパウロはここで「罪人のかしらです」と現在形で語っています。キリストを信じて罪赦されて信仰者になったのに、「罪人のかしら」としての自己認識を変わらずに持ち続けました。赦されてはいるけれども、変わらずに罪が自分を内側から支配している自覚をはっきりと持ち続けていたのです。
 しかしそれでもパウロは平安でした。なぜならばパウロはイエス・キリストを個人的に知っていたからです。罪人を救うために来られたイエス・キリストと出会い、その救いを経験しました。パウロは続けて「しかし、私はあわれみを受けました」と語りました。大変な罪人であったパウロだったのに、彼はあわれみを受けて罪赦されたのです。しかも、そこには神様のご計画がありました。イエス様がパウロにこの上ない寛容をまず示してくださったのは、彼をイエス・キリストを信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例とするためだったのです。
 当時の人々はきっと思ったに違いありません。「あのパウロでも救われるのか!」 あのキリストの敵対者であったパウロでさえ救われました。それは当時の人々にとって、大きな励ましであったに違いありません。

【2】 戦犯とされた一キリスト者
 8日の夜に放映された「NHKクローズアップ現代」という番組を観られた方がおられるかもしれません。戦時中にクリスチャンとしてフィリピンに派遣され、戦犯となられた中田善秋さんという人物が紹介されていました。ルソン島南部で住民を虐殺する事件が起こり、中田さんはその事件の関与を問われ、戦犯とされてしまいました。
 その裁判は戦勝国アメリカによって敗戦国日本を裁く一方的で矛盾に満ちたものでした。中田さんは日本人に対する復讐心に燃えるアメリカ人とフィリピン人の恨みの標的にされてしまったのです。戦犯となるような人物ではなかったのに戦犯とされてしまい、戦後の10年間をスガモプリズンの中で過ごされました。
 その中田さんはプリズンの中で聖書研究会を開き、「信友」と題する機関紙も発行したりして自分の罪と向き合い続けました。そして確かに戦犯になるような罪を犯してはいないけど、日本人として戦争に協力したこと、心の中で虐殺事件を肯定していたこと、そして、多くのフィリピン人が苦しんでいる責任が自分の中にあること、そのような自らの罪を神の前に強く意識するようになりました。やがて戦犯釈放運動が起きて、仲間の戦犯たちが次々と釈放されていく中にあって、中田さんはそれを拒否しました。刑に服する選択をしたのです。
 そんな中田さんにとっての慰めは、イエス・キリストを個人的に知っていることでした。この世では刑に服しましたが、しかしそんな中田さんを救うためにイエス様がこの世に来られ、十字架に架かって死んでくださったことを中田さんは信じました。中田さんはあわれみを受けました。それが中田さんにとっての慰めだったのです。
 やがて私たちが人生を終える時、生きている時にどんな実績を上げたか、どんな功績を遺したかは、あまり重要なことではありません。その時、重要なのは、自分の罪が赦されているか、救われているかどうかです。その救いをいただいている人は平安の内に安心して、この世の旅路を終えることができます。希望をもって最後の息を引き取ることができます。永遠のいのちを得ているからです。
 このクリスマスの季節、罪人を救うために来られたイエス様を心に信じ、自らの救い主としてしっかり受け入れましょう。そして慰めと平安を得ようではありませんか。