罪を赦す権威          マタイの福音書9章1~8節

2021年11月21日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 イエス様のもっておられる嵐を静める権威や、悪霊を追い出す権威が明らかにされました。さらにイエス様は罪を赦す権威をもっておられたことを今日は覚えたいと思います。
 
【1】 中風の人を連れてきた仲間たちの信仰
 イエス様がカペナウムに戻られると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエス様のもとに連れてきました。マルコの福音書2章の記事を見ますと、これらの人々は四人だったことがわかります。この時イエス様は家の中にいましたが、そこにたくさんの人々が集まり、戸口のところまで隙間もないほどでした。よって、彼らが中風の人を連れてきても、とてもイエス様にお会いできる状態ではありませんでした。
 そこで彼らは中風の人を担いだまま天上に上り、イエス様がおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろしたのです。何と言う大胆な行動でしょう。この家の住民たちは自分の家の天上が壊されてしまうのを見て、本当に困ってしまったのではないかと思います。
 しかし彼らは必死でした。何とかして中風の人をイエス様に引き合わせたいと一生懸命でした。そしてイエス様もそんな彼らの信仰をご覧になり、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と宣言してくださいました。彼らの熱心な信仰を見て、彼らの仲間の罪を赦して下さったのです。
 四人の人々は中風の人に対して何もしてあげることができませんでした。でも、そこであきらめないでイエス様の下にこの病の友人を連れてきました。イエス様に信頼したのです。
 信仰とは自分の持っているものに何か新しいものを付け加えることではありません。自分の欠けや弱さを認めて、神に拠り頼むことです。そのような信仰をイエス様は喜んでくださいます。そのような信仰に目を留めて私たちの罪を赦し、私たちを救いに導いて下さるのです。

【2】 律法学者の不信仰
 信仰をもってイエス様に近づいてくる人々がいる一方で、不信仰な人たちもそこにいました。律法学者たちです。彼らはイエス様が「子よ、あなたの罪は赦された」と語るのを聞き、心の中で「この人は神を冒瀆している」と言いました。
 彼らのこの認識は正しい認識でした。人の罪を赦す権威とは神のみがもっている権威であると、ユダヤ社会では信じられていました。よってイエス様が中風の人に「あなたの罪は赦された」と宣言した時に、律法学者たちには、それが神に対する冒瀆であると感じられたのは当然のことだったのです。
 しかし問題なのは彼らの心の中にある動機です。彼らは心の中で悪意を抱きながらイエス様のことばを聞いていました。イエス様は彼らに「なぜ心の中で悪いことを考えているのか」と問いかけました。彼らの心の中に悪い思いが隠されていることを見抜いて、その部分を指摘されました。イエス様がどんなに恵みの福音を語っても、彼らにはそれを受けとめる余地はなかったのです。
 私たちはどちらに近いでしょうか。中風の人の友だちのように主を求めてイエス様に近づいているでしょうか。それとも律法学者たちのように不信仰を貫いているでしょうか。いずれにせよイエス様は私たちの心の中に何があるのかをよくご存知なのです。

【3】 罪を赦す権威
 頑なな律法学者たちを見ながらイエス様は言われました。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために。」 そう言ってから中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われました。すると彼は起き上がり、そのまま自分の足で歩き始め、家に帰っていったのです。群衆はその光景を見て恐ろしくなり、神をあがめました。イエス様によって神のみわざがなされたのです。
 この奇跡がなされた目的は、イエス様は罪を赦す権威をもっていることを人々に示すことにありました。結果として中風の人の病が癒され、同時に罪も赦されました。イエス様にとっては身体の癒しも大事ですが、罪の赦しはもっと大事です。身体が治っても、いずれまた病気になるでしょう。この中風の人もこの時には癒されて元気になりましたが、いずれまた病気になったでしょう。しかし身体の癒しよりももっと大事なことがあります。それは私たちの罪が赦されていることです。
 この世では悪いことをしても見つからなければさばかれることはありません。しかし、神様は私たちのすべての行いを見ておられます。さらに私たちが心の中で何を考えているのか、すべてご存知です。そしてそのような私たちは必ず神様の前に立たされ、さばかれなければなりません。そのさばきとは永遠の滅びです。それが私たちの罪の定めだったのです。
しかし、イエス様がこの地上に来られて、私たちの罪を背負い、私たちの身代わりとなって十字架で死んでくださいました。まさにイエス様は私たちの罪を赦すために来られました。この方は私たちの罪を赦す権威をもっておられるのです。 
イエス様の十字架は我がための十字架です。私の罪のために死んで下さったイエス様を救い主として信じ、受け入れ、この方に従ってまいりましょう。