悪霊に対する勝利          マタイの福音書8章28~34節

2021年11月21日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 前回の箇所ではイエス様が嵐を静められた場面をともに学びました。今日はイエス様が私たちの外側の嵐だけでなく、私たちの内側の嵐、心やたましいの領域における嵐を静めてくださる方であることを覚えたいと思います。
 
【1】 悪霊につかれる苦しみ
 イエス様と弟子たちの一行は、ガリラヤ湖の対岸のガダラ人の地に到着しました。すると悪霊につかれた人が二人現れて、イエス様を迎えました。この二人は墓場に住んでおり、ひどく狂暴で、だれもその道を通れない程でした。マルコ5章の記事を見ると、鎖も足かせも壊してしまう程狂暴で、夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていました。誰にもコントロールできず、人々から見捨てられ、恐れられていたことがわかります。
 表面の恐ろしい風貌の陰に、彼らが抱えていた深い孤独、絶望、嘆きを垣間見るような気がします。なぜこのような状態になってしまったのかはわかりません。しかし、自分ではどうすることもできない大きな問題に直面し、悩み、自らのコントロールを失い、人々からも見放されて、彼らは深い孤独に苦しんでいたように思います。
 悪霊ということばは現代の私たちには、非現実的に感じられることばかもしれません。しかし聖書は私たちに、私たちの格闘は「この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです(エペソ6の12)」と語り、見えない霊的な闘いに私たちがさらされている事実を教えています。
 悪霊とは、神に反逆したサタンに仕える邪悪な霊と考えることができます。悪霊の目的は私たちをみことばの真理から引き離し、結果的に神様から引き離すことです。そのために悪霊は私たちの罪人としての肉の性質や、過去の失敗や私たちの弱さに働きかけ、私たちを内側から支配し、私たちの神様への信頼を断ち切ってしまうのです。
 パウロは「悪魔に機会を与えないようにしなさい(エペソ4の27)」と教えています。このような霊的闘いがあることを自覚しつつ、私たちはいつも目を覚ましていなければなりません。

【2】 イエスによる勝利
 悪霊はイエス様のことを見て「神の子よ」と語りました。悪霊はイエス様のことをよく知っている、ということがわかります。さらに悪霊は、イエス様が悪霊を苦しめる存在であること、やがて時が来れば自分たちはイエス様に滅ぼされてしまうということも知っていました。
 そこで悪霊はイエス様に懇願して言いました。「私たちを追い出そうとされるのでしたら、豚の群れの中に送ってください」とイエス様にお願いしているのです。イエス様と悪霊たちの力の差は歴然としていることがわかります。悪霊は狂暴で破壊的です。しかしイエス様の敵には全くなり得えないことがわかります。
 イエス様が「行け」と言われると悪霊は豚に移動し、豚の群れ全体が崖を下って湖になだれ込み、水におぼれて死んでしまうという驚くべき結果になりました。二人の男たちを縛っていたこの悪霊の力が、いかに大きかったかがわかります。しかしイエス様はこの悪霊どもを、「行け」という一言で退けました。この一言で悪霊に対する圧倒的勝利を宣言されたのです。
 この悪霊の攻撃に勝利するために、私たちも主に信頼しましょう。そしてみことばから離れることがないように注意しようではありませんか。
 
【3】 人々の反応
 豚を飼っていた人たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれていた人たちのことを町の人々に知らせました。すると、人々がイエス様のもとにやって来て、その地方から立ち去ってほしいと懇願しました。イエス様によって悪霊に対する大勝利がもたらされたのに、人々はイエス様を求めませんでした。むしろ邪魔者扱いにしました。どうしてなのでしょう。
 飼っていた豚が大量に死んだことは、この町の人々にとって大きな経済的な損失でした。イエス様の存在によって自らの経済や生活が脅かされると感じたのです。彼らは悪霊につかれた人々が悪霊から解放されたことを喜ぶよりも、自分たちの生活を守ることに必死でした。彼らにとってはこの地上での生活がすべてであり、人間の霊的な必要に彼らはまだ目が開かれていなかったのです。
 今までどこに行っても歓迎されていたイエス様がこれ以後、少しずつ歓迎されなくなっていきます。歓迎よりも戸惑い、反発、嫌悪、敵対を受けることが多くなっていきます。せっかく救い主が来られたのに、せっかくイエス様によって神の国が到来したのに、それに気づくことのない、そしてそれを必要としない人々が当時もたくさんいたのです。

【4】 結び
 私たちも信仰者として歩む時、様々な人々の反応に出会います。信仰者ゆえに反発されたり、嫌がられたり、攻撃されたりすることもあります。いずれサタンは必ず滅ぼされますが、それまでは私たちの霊的な闘いも続きます。しかし主とともに歩む者には必ず勝利があります。そして主とともに歩む幸いがそこにはあります。主に信頼して歩んでいきましょう。