わたしの心だ。きよくなれ      マタイの福音書8章1~4節

2021年10月3日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 この一年半、私たちはコロナ感染予防に熱心だったと思います。でも感染された方々の苦しみに思いを馳せることはどれだけあったでしょうか。周囲が感染予防に必死になればなる程、感染された方の孤独や苦しみはきっと大きかったのではなかったかと想像します。

【1】 ツァラートに侵された人の苦しみ
 マタイの福音書8章で、イエス様は一人の「ツァラート」という病に侵された人と出会われました。この病気は人々に恐怖と戦慄を与える病でした。なかなか治りにくい不治の病であり、身体が少しずつ腐っていくという病でした。ツァラートに侵されると身体中に腫瘍ができたり、歯が抜け落ちたり、指が曲がったり、鼻や耳が取れたりしたそうです。そして当時の人々はツァラートの人を宗教的にも汚れた人と見なしました。神の罰がその人に下ったと考えられていたのです。
 よってツァラートに侵されるとその人は社会から完全に切り離され、隔離されました。今日にも様々な難病がありますが、当時のツァラート程深刻な病はなかったのではないでしょうか。人々に非常に恐れられる病だったのです。
 このツァラートの男がこの日、イエス様の下にやって来ました。そしてイエス様に向かってひれ伏し、言いました。「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」 この男はイエス様のうわさを聞いて救いを求めてやって来たのでしょう。本来隔離されていなければならないツァラートの患者が、群衆の中に紛れていること自体が異常事態です。本来あり得ないことです。しかし、この男はとにかく必死でした。イエス様を求めました。そしてイエス様なら自分のこの病を必ず癒して下さると信じたのです。そこに彼の信仰がありました。私たちにはこのような信仰があるでしょうか。私たちの抱えている問題をまず、主の前に差し出しているでしょうか。
 ただ彼は「お心一つで…」と語りました。自分が癒されるかどうかはイエス様のお心次第です。信仰はあります。でも、こんな惨めな自分に果たしてイエス様は目を留めてくれるのだろうか、自分をあわれんで下さるのだろうか、自信がないのです。イエス様の下に大胆に近づきながらも、不安と葛藤を抱えている彼の気持ちが、このことばには表されています。

【2】 イエスの愛
 この男に対してイエス様はどう対応されたでしょうか。何と最初にイエス様はこの男に向かって手を伸ばし、彼にさわられました。これは衝撃的なことでした。当時、ツァラートの人に触れる人は誰もいませんでした。ツァラートに感染してしまうかもしれませんし、また、宗教的にも汚れた人と見なされてしまいます。しかしイエス様はこの人にさわられました。それはこの男の病も汚れもイエス様が引き受けられたこと、この男の苦しみの根源をイエス様は担われたことを表しています。イエス様にさわられた時、その手のひらのぬくもりを感じた時、この男は心が震えるような感動を味わったのではないでしょうか。
 その上でイエス様は言われました。「わたしの心だ。きよくなれ。」 このイエス様のことばは、先ほどのこの男のことば「お心一つで私をきよくすることがおできになります」に、そのまま対応した返事です。つまり、イエス様はこの男の心の願いをそのまま受け止めてくださったということです。イエス様はこの男の孤独も葛藤も全部よく理解しておられたのです。
 その瞬間、彼のツァラートは癒されました。そしてそれは同時にきよめでもあったことがわかります。イエス様はこの男の病を癒し、罪を赦して下さったのです。彼の信仰に応えて、彼の罪の問題をも解決して下さったのです。
 続けてイエス様は言われました。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ行って自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じたささげ物をしなさい」。当時ツァラートに侵された人が癒されて社会復帰するためには祭司の下に行き、祭司から「この人はきよい」と宣言してもらう必要がありました。つまりイエス様はこの男がちゃんと社会復帰を果たし、人々との関係を取り戻すことができるように導いて下さったのです。何と言う行き届いたイエス様のご配慮でしょうか。
 イエス様によってもたらされる救いは肉体の癒し、罪の赦し、破れた人間関係の回復にまで及んでいくことがわかります。イエス様の私たちに対する愛は私たちの肉体、霊、人間関係にまで及ぶトータルな愛なのです。私たちはこのようなトータルな救いを求めていく必要があります。肉体の癒しも罪の赦しも人間関係の回復も、すべて神様から与えられる恵みなのです。

【3】 結び
 現在のコロナ禍にあって私たちが問われているのは、私たちと神様の関係がどれだけ確立されているか、ということです。イエス・キリストと出会い、神様との関係が「主と我」という個人的な関係になっている人は、試練の中にあってもますます神様との関係を深めていくことができるでしょう。
 私たちはどれだけイエス様と出会っているでしょうか。イエス様の救いを経験しているでしょうか。私たちのあらゆる領域に深く関わって下さる主としっかり出会い、救われた恵みに感謝しつつ、この方にしっかりと従っていこうではありませんか。