主は私たちの病を負った        マタイの福音書8章14~17節

2021年10月17日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 病の苦しみは、その病を負った人にしかわからないものだと思います。肉体的な苦しみに、誰からも理解されないという精神的な苦しみが加わり、その人は孤独な闘いを強いられるのではないでしょうか。そこに本当の慰めと希望があるとするならば、それは私たちの主が、その病を負って下さるというところにあるのではないでしょうか。
 
【1】 ペテロの姑の癒し
 イエス様はその日、カペナウムにてペテロの家に入り、彼の姑が熱を出して寝込んでいるのをご覧になりました。マラリヤのような熱病だったかもしれません。そこでイエス様は彼女の手にふれられ、その熱病を癒してくださいました。
 ツアラートと同じで、当時、熱病の人にさわる人はいなかったそうです。病が感染すると考えられていたからです。またユダヤ教のラビと呼ばれる宗教指導者が、女性にふれるということも当時はありませんでした。イエス様の行為はやはり、当時の人々にとって衝撃的な光景だったのです。
 それでもイエス様は彼女の手を取って、彼女の熱病を癒してくださいました。彼女の病をただ癒したということ以上に、彼女が負っている苦しみや、そこで受けられる不当な評価なども、みなイエス様は担ってくださったのです。その手のぬくもりによってペテロの姑も、深く慰められたことと思います。
 その奇跡を経験してペテロも慰められたのではなかったでしょうか。ペテロはイエス様と出会い、すべてを捨ててイエス様に従っていく決心をしました。それはペテロにとってはとても嬉しいことでしたが、ペテロの家族はその事実をどんな思いで見ていたでしょうか。特にペテロとアンデレという二人の息子たちが仕事を捨ててイエス様に着いていく姿を見て、ペテロの姑は複雑な思いを抱いていたのではないでしょうか。そのことが、ペテロにとっても心の負担だったのではないでしょうか。
 しかしイエス様はペテロの家の客となられました。そして、ペテロの姑の病を癒し、ペテロの家に祝福を届けてくださいました。
 主は主に従うものの家族をも顧みてくださいます。神の国とその義とを第一する者の必要に、主は必ず応えてくださるのです。

【2】 ペテロの姑、イエスをもてなす
 イエス様によって熱病を癒されたペテロの姑は、その後、どうしたでしょうか。何と彼女は起きてイエス様をもてなし始めました。病み上がりで体力を消耗しきっていただろうに、癒された喜びの方が大きく、彼女はイエス様をもてなし始めたのです。ここで「もてなす」と訳されていることばは「仕える」という意味のことばで、彼女が神に仕える人になったこと、それが彼女の人生における最大の喜びとなったことを表しています。
 クリスチャンにとっての喜びとは、どんな喜びでしょうか。それは神と人とに仕えることのできる喜びです。自分を愛して下さった方に、自分も愛をもって応えることのできる喜びです。私たちのために十字架にかかりいのちをささげて下さったイエス様に、私たちも心からお仕えすることができます。それは私たちにとっての特権であり大きな喜びです。それが私たちの人生の第一の目的となるのです。
 ペテロの姑のように私たちも、イエス様に喜んでいただけるように、心からお仕えしていきたいと思います。

【3】 病を負った主
 その後、イエス様はさらにイエス様の下にやって来た人の、悪霊を追い出し、病を癒してくださいました。当時の社会の中にあって困窮している人々、絶望している人々にご自身を現わされました。
 これら一連の事実を紹介した上で、マタイはこれらが預言者イザヤの預言の成就であることを宣言しました。つまり、イエス様はあの預言者イザヤが預言したところのメシア・救い主であること、そしてイエス様によってなされた癒しのみわざは、この地上に神の国が到来したことのしるしであると、ここで証ししたのです。その上でマタイは結論としてイザヤ53の4のみことばを引用し、イエス様が私たちのわずらいを担い、私たちの病を負ったと主張しました。
 イエス様はどのような意味で私たちのわずらいを担い、私たちの病を負ったのでしょうか。イエス様が大病を患ったという記録はありませんので、肉体的な意味でイエス様が私たちの病を負ったわけではないと思います。イエス様は霊的な意味で、私たちの病を負ってくだいました。
 人の病を敢えて負いたいと願う人は、普通はいないと思います。しかし、そんな私たちでも自分の最も大切にしている人、愛している人が病に苦しんでいるのを見たら、その病を代わってあげたいと願うのではないでしょうか。
 イエス様は私たちの病を負われました。その時に伴う苦しみや悩み、そこで受ける辱めのいっさいを、イエス様は担って下さったのです。それはイエス様が私たちを愛しておられることのしるしなのです。どうか病の内に苦しんでいる人々に、そこにともにおられるイエス様の臨在がはっきりと現わされますように。愛する人を失った方々にも、主のご臨在が豊かにあり、慰めで満たされますように、ともに祈りましょう。