ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来い       イザヤ書55章1~5節

2023年11月19日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

【1】 出て来るがよい
 「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい(1)」。まず私たちの心に響くのは、「出て来るがよい」という預言者イザヤの呼びかけのことばです。「出て来るがよい」ということばから、人々は見えないところに隠れていることがわかります。中にこもってしまっている人々が、姿を表すように、表に出て来るようにと励ましているのです。
 人々に向かって「出て来るがよい」と呼びかけることが、教会に与えられているつとめです。神を求めている人がどこにいるのか、私たちにはわかりません。しかし、その人たちは確実にいます。その人々に向かって私たちはいつも「出て来るがよい」と呼びかけるのです。
 
【2】 渇いている者
 イザヤはどうしてこのように呼びかけたのでしょうか。二つの理由が考えられます。第一に、彼は渇いている人々に対して共感する心をもっています。初めに彼は「ああ、渇いている者はみな…出て来るがよい」と語っています。開口一番「ああ」と声を発しました。渇いている人々のその渇きがどれだけ苦しい状態か、どれ程切実な悩みであるかが、彼にはわかるのです。
 申命記24章では二回「あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったことを覚えていなければならない」と命じられています(18、22)。イスラエルの民は神の救いを経験しましたが、救われる前にエジプトで奴隷だった頃、虐げられ苦しんでいた時のことを何年たっても覚えている必要がありました。今、同じように苦しんでいる寄留者や孤児、やもめたちのその苦しみに共感するためです。
 私たちも救われる前、真理を求めてさまよっていた時、渇いていた時、苦しくてもがいていた時のことを忘れてはいけません。私たちの周りにはかつての私たちのように、救いを知らず悩み苦しんでいる人々がたくさんいます。そのような人々の苦しみや渇きに共感する時、私たちは心から「ああ、渇いている者はみな、出て来るがよい」と呼びかけることができるのです。

【3】 水を求めて
 二番目に、イザヤは満たされることの喜びを知っていました。神と出会い、神との関係で満たされる素晴らしさを知っていました。
 新約聖書の中で深い渇きに苦しんでいた人の代表は、ヨハネ4章に登場するサマリヤの女です。彼女は結婚に何度も失敗し、今も不安定に立場に置かれ、人目を避けて生きて行かなければならない女性でした。彼女の心もたましいも満たされることなく、深く渇いていたのです。しかし、この女性とイエス様は出会ってくださいました。そして「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません」と語られました。このイエス様との出会いによってサマリヤの女は満たされ、心の中から喜びが泉のように湧き出るようになりました。
 かつて渇いていた私たちもイエス様と出会って満たされました。その経験があるから私たちは「水を求めて出て来るがよい」と呼びかけることができるのです。

【4】 金を払わないで
 それにしても「出て来るがよい」と呼びかけても、なぜ人は出て来ないのでしょうか。出て行くことができない理由があるからです。第一に、自分に自信がありません。
 イザヤは「金のない者も、さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買え(1)」と語りました。彼らには金がありませんでした。経済力な貧しさということではなく、自分自身に対する貧しさです。彼らは自分に対する評価が低く、自分に自信がないのです。
 ところがイザヤは「金を払わないで穀物を買え」と言いました。金がないのにどうやって買って食べることができるのでしょうか。しかし、穀物と葡萄酒と乳は金を払わないで食べることができました。ただで与えられる恵みだったことがわかります。
 さらに人々は食糧にもならないもののために金を払い、腹を満たさないもののために労していました。満たしを求めて必死に働き、賃金を得て、幸せを得ようと努力するのですが、決して満たされることがありませんでした。
現代も何と多くの人々が満たしを求めて必死になっていることでしょうか。しかし、その先に本当の満たしはないのです。

【5】 わたしのところに
 5節でイザヤは語りました。「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたは生きる」。「出て来い」とは神のおられるところに出て来いという意味であること、そしてイザヤは神の思いを代弁していたことがわかります。みことばに耳を傾けて近づく時、人は無条件に満たされます。その満たしは恵みとして与えられます。神が私たちを求めておられるのです。
 聖園教会は今まで60年間、人々に向かって「出て来るがよい」と呼びかけ続けてきました。その呼びかけに応じて、私たち一人ひとりがここに集められ、神と出会い、満たされる経験が与えられました。私たちはこれからも「出て来るがよい」と大声で、人々に呼びかけ続けたいと思います。