みこころがなるように      マルコの福音書14章32~42節

2021年2月7日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 小林鏡子先生の生涯をたどりながら、先生は祈りの人であり、祈りによって聖園教会を築かれたことを教えられています。聖園教会の名前も、ゲッセマネの園にちなんで付けられたと知り、ここは「祈りの園」であると思わされました。今日はイエス様のゲッセマネの園における祈りの姿に注目したいと思います。
 
【1】 十字架の前の祈り
 イエス様は十字架の直前に何をされたでしょうか。祈られました。十字架はイエス様にとっても、大変な苦しみでした。その十字架に向かっていくために、イエス様にも祈りが必要だったのです。
 イエス様はオリーブ山のゲッセマネの園に到着され、早速、祈りの態勢に入られました。ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人をそばに伴われたのは、励ましを必要とされたからでしょう。イエス様は深く悩み、もだえ始め、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と弟子たちに伝えました(33~34)。そのイエス様の姿を見て、弟子たちはきっと驚いたことでしょう。しかしイエス様はその時、一人ではとても担いきれない悩み、苦しみ、悲しみを抱えていたのです。
 そして地面にひれ伏し、「できることなら、この時が自分から過ぎ去るように」と神様に祈りました。これがイエス様のその時の正直な気持ちでした。イエス様は十字架の前に、これから味わう自らの死を覚えて、大変な苦しみを経験されたのです。イエス様も私たちと全く同じ人間でした。十字架の道に真っ直ぐに向き合うために、イエス様にも祈りが必要だったことを覚えたいと思います。

【2】 父なる神に対する信頼
 イエス様はまず「アバ、父よ」と神様に呼びかけました(36)。「アバ」という子どもが父親に親しみを込めて呼びかけることばで、神様を呼びました。この呼びかけが、祈りにおける勝利の第一歩でした。なぜならば、この呼びかけによって、イエス様は父なる神様としっかり向き合うことができたからです。
 祈りとは独り言ではありません。祈りとは父なる神様との対話です。つまり、祈りとは必ず父なる神様の前でなされます。ところが、私たちの祈りが父なる神様に向かっての語りかけになっていかない時があります。祈りの対象である父が意識されないままに、対象の定まらない独り言になってしまうのです。
 私たちは祈りの中で父なる神様と出会います。みことばを通して主の素晴らしさを知らされ、主に信頼します。そして私たちは主に委ねる者とされていきます。
 イエス様は最初「どうか、この杯をわたしから取り去ってください」と祈りました。自分の率直な願いを伝えました。しかし、祈りの内に神様と出会った時に「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」との祈りに導かれました。主の御手に支えられながら、自分の願いではなく、主のみこころを優先することができました。
 祈りにおいて、私たちにとって一番大事なことは祈りが叶えられることではありません。祈りが叶えられること以上に、祈りの内に主を知り、主に信頼し、主に委ねる者とされることが大事です。みことばに支えられ、守られながら、私たちは祈りにおいて勝利者とされていくのです。
 
【3】 個人の祈りではなく、群れとしての祈り
 イエス様は祈っている時にその祈りを時々中断され、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの様子を見に行っています。いつ行っても彼らは眠っていました。三人はイエス様より「目を覚まして祈っていなさい」と繰り返し忠告されるのに、睡魔に打ち勝つことができません。そんな三人を見てイエス様はどんな気持ちだったでしょうか。
 それにしてもなぜイエス様は三人の様子を時々伺いに行かれたのでしょうか。それは、祈りのサポートを必要とされたからではないでしょうか。イエス様が一人で抱えておられる重荷を、弟子たちにも共に担ってほしかったからではないでしょうか。弟子たちは、そんなイエス様の期待にとても応えられる状態ではありませんでした。しかし、イエス様はそれにも関わらず、弟子たちに大切なことを教えておられたように思います。それは重荷を互いに担い合うということ。一人ですべてを抱え込むのではなく、それを祈りによって人と分かち合うこと、その大切さを主は弟子たちに教えておられたことに私たちは気づかされるのです。
 私たちは自分の抱えている重荷を、一人で抱え込んで苦しんでいることはないでしょうか。祈る必要をいつも意識しながら、一人だけでは十分に祈ることのできない力不足を感じているのではないでしょうか。重荷は互いに担い合うことが必要です。イエス様が弟子たちの祈りを必要とされたのです。私たちにも自分で祈るだけでなく、祈られる、という経験が必要なのです。

【4】 結び
 小林鏡子先生と軍地光子先生が、この地に「祈りの園」を築いて下さったことに、私たちは心からの敬意を表したいと思います。そして、私たちはこの場所で「祈りの群れ」を形成していきたいと思います。教会は互いに祈り合う「祈りの群れ」です。ここで主イエスが祈られたように、主のみこころがなるように、共に心を合わせ祈り合っていこうではありませんか。