不正な裁判         マルコの福音書14章53~65節

2021年2月21日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 私たちは子どもの頃、親の苦労にあまり気づきません。親になってみて初めて、子育ての苦労がわかるものです。子育ての苦労がわかって、私たちのために苦労してくれた親のありがた味がやっとわかります。
同じことが神様との関係でも言えるかもしれません。私たちは神様に愛されていることにあまり気づきません。しかし、苦しみにあってみて初めて、私たちのために苦しんで下さった神様の愛に気づかされます。そのような意味で、イエス様の体験された苦しみを知ることは、私たちにとってとても大事なのです。
 
【1】 不正な裁判
 ゲッセマネの園で捕らえられたイエス様は、大祭司の家に連れていかれました。祭司長たち、長老たち、律法学者たちがみな集まって来て、すぐに裁判が始まりました。朝方の早い時間に急遽開かれるという異常な裁判でした。
 その内容も極めて不当なものでした。それが「イエスを死刑にするため(55)」の裁判だったからです。イエス様を死刑にするという点で、皆が一致していました。そこに正義はなかったのです。
 最高法院は、イエス様にとっての不利な証言を得ようと努力しましたが、何も見つかりません。偽証までしてイエスを告発しようとしますが、それらの証言も一致しませんでした。ある人々は、イエス様が「神殿を壊し、別の神殿を三日で建てる」と言っていた、と語りましたが、この点でも証言は一致しませんでした。
 大祭司は、イエス様を死刑にするための証言がなかなか得られないことと、イエス様が沈黙し続けるのを見て苛立ち、遂にイエス様に直接語りました。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか」。するとイエス様は答えました。「わたしが、それです。」 ご自分が来るべきメシヤ(救い主)であることを彼らに告げられ、さらにご自分が後に神の右の座に着き、やがて雲とともにやって来る天的存在であることまでお語りになりました。
 このイエス様のことばを聞いて大祭司は即座に反応。自らの衣を引き裂きながら、自分を神と主張するイエス様が冒瀆罪に当たると主張しました。議員たち全員がその意見に即座に同意し、イエス様の有罪が決められてしまいました。罪人とされたイエス様はその後、唾をかけられ、拳で殴られ、嘲られ、平手で打たれ、様々な辱めを受けられたのです。

【2】 裁く者の焦り、裁かれる者の平安
 これだけの辱めを受けているのにも関わらず、イエス様の内には不思議な落ち着きがありました。焦っているのは裁かれる側ではなく、むしろ裁く側だったのです。なぜこのような苦しみの中にあっても、イエス様は落ち着いていられたのでしょうか。
 ご自分が体験されていることが聖書の預言の成就だと、わかっていたからです。イエス様のその時の姿は、「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」と語る預言者イザヤの預言の通りでした(イザヤ53の7)。
 二番目に、苦しみの道が勝利の道であることをイエス様はご存知でした。十字架の苦しみの後に復活があり、天に昇り、神の右に着座すること、そのような栄光ある勝利につながっていくことを、主はご存知だったのです。さらに、イエス様はいつの日か偉大な力と栄光とともに、この地に来られます。何のためでしょうか。この地でさばきを行うためです。その時が来れば正しいさばきが行われます。そのような父なる神様のご計画をご存知だったために、イエス様は自らに定められた道を、勝利を確信しつつ信仰をもって歩んで行かれたのです。

【3】 キリストの模範(Ⅰペテロの手紙2章18~25節)
 ペテロは第一ペテロ2章21節で「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された」と教えています。キリストが経験された苦しみは私たちのためであり、その足跡に従うために主は私たちに模範を示して下さいました。何の模範でしょう。
 一番目に耐え忍ぶこと。善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです(20)。二番目に、正しくさばかれる方にお任せすること(23)。復讐は私たちのすることではありません。主が正しいさばきをなされます。そして最後に自分を迫害する者のために祈ること(マタイ5の44)。イエス様も十字架の上で自らを迫害する者のために祈りました。
 私たちがこの世で信仰者として歩んで行こうとする時、必ず迫害されます。あざけりや、いじめや意地悪など、曲がった世の中の攻撃を受けます。もし迫害を受けていないとするならば、私たちの信仰のどこかに妥協があるのかもしれません。
 私たちに求められていることは恐れることなく、キリストの模範に従うことです。イエス様が歩まれた十字架の道を私たちも歩んでいくこと。耐え忍びながら、委ねながら、祈りながら、勝利を信じて歩んでいくことです。その時、主が私たちに伴って下さいます。私たちに平安を与えて下さいます。イエス様が歩まれた十字架の道を、私たちもまた共に歩んでまいりましょう。

【祈り】この世を恐れることなく、主の模範に従うことができますように。