イエスの捕縛         マルコの福音書14章43~52節

2021年2月14日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 本日の箇所はイエス様がいよいよ捕らえられる場面です。この一連の出来事が夜の暗闇の中で起こっていることに、私たちは最初に注目したいと思います。これは昼間には起こり得ないことでした。人々は昼間を避けて、夜にイエス様を捕らえました。十字架に向かって毅然として歩まれるイエス様と、闇にまぎれて歩まざるを得ない人間の姿が、対照的に描かれています。
 
【1】 ユダ
 イエス様を捕らえにやってきた群衆の先頭に立っていたのは、イエス様の12弟子の一人ユダでした。群衆の多くはローマ兵とユダヤ神殿の警備隊からなる兵士たち(ヨハネ18の3)。よって「群衆」と言うよりは「軍団」と呼んだ方がいいような集団でした。
 ユダは「イエスを裏切ろうとしていた者(44)」と紹介されています。裏切り者としてのユダが強調されています。ユダは群衆たちに「その人を捕まえて、しっかり引いて行くのだ」と率先して指示を与える程、中心的な役割を果たしています。その上で「先生」と呼びかけながらイエス様に近づき、イエス様に口づけしました。口づけはイエス様に対する挨拶ではなく、群衆に対する合図でした。それを見て人々は一斉に動き始め、イエス様を捕らえてしまったのです。
 ユダは口づけをもってイエス様を裏切りました。愛情と尊敬のしるしである口づけが、裏切りの手段だったのです。人間として最も醜くい卑劣な行為を、最も美しいもので覆い隠してしまいました。罪人としての姿を、美しいもので覆い隠してしまう人間の偽善的な傾向と性質が、ここに表されています。
 イエス様も律法学者やパリサイ人の偽善を「おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ」と告発されました(マタイ23の28)。醜いものを醜いとし、美しいものを美しいとそのまま受け止めることができたならば、私たちは神と人との前で、もっと謙虚に歩めるのではないかと思います。みことばの光によって私たちは心の内をしっかりと照らしていただき、主の御前に罪を告白する者でありたいと思います。

【2】 群衆たち
 捕らえられた後、イエス様は群衆たちに言われました。「まるで強盗にでも向かうように…わたしを捕らえに来たのですか。(48)」「わたしは毎日、宮であなたがたと一緒にいて教えていたのに…わたしを捕らえませんでした。(49)」 夜中に物々しくイエス様を捕らえに来た彼らの姿が、いかに異常であるかをイエス様は指摘されています。
 なぜ夜の間に、これだけ不自然な形での逮捕になったのか。それはやはり人々の目を恐れたからでしょう。光を避けて、闇の中にまぎれてでしか行動することのできない、人間の罪人としての性質が表わされています。
 聖書は、私たち人間が実は光よりも闇を愛している事実を指摘しています。「悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」(ヨハネ3の20)。私たちは光を愛しているようで、実は闇を愛しています。私たちの行いが悪いから、その姿が明らかにされることを恐れて、私たちは闇にまぎれてしまうのです。
 イエス様を十字架に追いやったものは何だったのでしょうか。それはユダの裏切りであり、群衆たちの悪行でした。人間の罪がイエスを十字架につけたのです。

【3】 聖書が成就するため
 しかしイエス様は最後に「こうなったのは聖書が成就するためです」と語られました(49)。「こうなったのは」の中に、ユダの裏切り、群衆がやって来たこと、さらに弟子たちがイエス様を見捨てて逃げてしまったこと、その結果、捕らえられてしまったことのすべてが含まれていました。それらはすべて聖書の預言が成就するためだった、とイエス様はおっしゃられるのです。
 かつて預言者イザヤは、救い主についてこのように預言しました。「彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする(イザヤ書53の12)。」 イエス様は聖書の預言通りに、自らに定められた道を、信仰をもって進んで行かれたのです。
 救い主は、いのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられる必要がありました。父なる神様に生涯従順だったイエス様が、なぜ、「背いた者たちとともに数えられる」必要があったのでしょうか。それは、多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをするためでした。
イエス様は自らを胡麻化して歩まざるを得ない人間の弱さをよくご存知です。自分を裏切ったり、憎んだり、見捨てたりしてご自分に背いてしまう人間の罪の深さもよくわかっておられます。その上で、私たちの罪を負い、私たちのためにとりなしをして下さったのです。私たちの罪を身に負って、十字架の道を歩んで行かれた主に感謝したいと思います。
そのイエス様の十字架の尊い犠牲のゆえに、私たちは今、救われて闇から光に移されました。光の子どもらしく主の光の中を歩んでいきましょう。心の闇を抱えながら闇にまぎれる生き方ではなく、主の光に導かれて歩んでまいりましょう。