主のことばは永遠に立つ      ペテロの手紙第一1章24~25節

2020年11月22日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

【1】 人はみな草のよう
 
 人はみな草のよう。
 その栄えはみな草の花ようだ。 
 草はしおれ、花は散る。

 人間について聖書は「人はみな草のよう」と語ります。「みな草のよう」とは、すべての人が例外なく「草のよう」、という意味です。私たちは「いや、人にはみな、個性があります。多様です。みんな違ってみんないいのです!」と言いたくなります。しかし草のようであるという点で、人はみな同じであると聖書は主張するのです。
 次の行に行くと少し希望を感じます。「その栄えはみな草の花のようだ」。 人にはみな、花のように栄える時があります。花のような華やかな時があることがわかります。
 しかし三行目に進むと、がっかりします。「草はしおれ、花は散る。」 ここにきてなぜ人が草や花に譬えられているのかがわかります。人はみな、草のようにしおれてしまいます。花のように華やかな時もありますが、それも長続きしません。いずれは散ってしまうのです。
 私たちの内にはこの事実を認めたくない気持ちがあります。薄々気づいてはいても、それをあまり直視したくない思いもあります。そんなことよりも私たちは人間の強さ、優秀さ、素晴らしさを誇りたいのではないでしょうか。人間の可能性を信じたいのではないでしょうか。
 ただし今、コロナ禍の中にあって私たちは、この事実に向き合わざるを得ない状況ではないかと思います。とても元気だった人が、ウィルスによっていのち絶たれるということが世界中で起きています。私たちの国の首相は「人類がウィルスに打ち勝ったしるしとしてオリンピックを開催したい」と語っておられますが、そのことばは、私たちの心にあまり響いてこないのではないでしょうか。 
 来年までにはワクチンが開発されて、「人類は本当にウィルスに勝利した」と宣言できる日が来るのかもしれません。そしてその時になれば、私たちはコロナ禍で苦しんだ今の日々を、次第に忘れてしまうのかもしれません。しかし、こんな今だからこそ、私たちが覚えていなければならないことがあります。それは人はみな草のよう、その栄えは草の花のよう、つまり人間の弱さ、脆さ、はかなさを私たちは今、よく覚えている必要があるのです。

【2】 人はみな草のよう、でいい
 このメッセージの結論は最後の行で語られるのですが、そこに行く前に、もう少し前半部分を味わいたいと思います。「人はみな草のよう」と聖書が語る時、聖書はそのことをマイナスのこととしては語っていません。何か人間にとって否定的なこととして、その事実を語っているのではありません。むしろ人間にとって大事なことです。最後の結論に向かっていくためにも、この事実を私たちは受け入れる必要があります。
 自分の弱さ、もろさ、はかなさを私たちが知っているからこそ、私たちはより確かなもの、より真実なもの、より永遠のものを求めます。それは私たちにとって悲しいことかもしれませんが、でもその事実を受け入れるからこそ、私たちは次のステップに進んでいくのです。逆にその事実を否定してしまったならば、私たちは前に進むことができません。そこには全く希望がないのです。
 
【3】 主のことばは永遠に立つ
 この事実を受け入れた人だけが、最後の結論にたどり着くことができます。「主のことばは永遠に立つ」。すべてが変わってしまう世の中です。このペテロの手紙が書かれた時代はローマ帝国全盛の時代でした。当時のローマは「永遠の都」と呼ばれていました。しかし、あの栄華を極めたローマ帝国もその後、滅びました。草のようにしおれ、花のように散ったのです。確かなものはこの世に何もありません。
 そんな変わりゆく世の中にあって唯一変わらないものがあります。それはみことば、聖書のことばです。どんなに時代が移り変わっても、聖書のことばは決して変わりません。聖書は永遠のベストセラーと呼ばれ、あらゆる時代の人々が等しく必要としているメッセージです。そしてそれはみことばを私たちに語っておられる神が、永遠に変わらないということを表しています。
 ダビデは詩篇8篇の中で「人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは」と語りました。ダビデは自分の弱さ、もろさ、はかなさをよく知っていました。しかし、そんな弱い人であることをダビデは悲しんでいません。むしろ喜んでいます。いや、感動しています。なぜならば、神様がそんな自分を心に留めて下さっていることを知らされたからです。
 弱く、はかない私たちかもしれません。しかし、そんな私たちを心に留め顧みてくださる方がおられます。その方が今も私たちに語りかけています。聖書を通して私たちに語りかけています。そしてそのメッセージは「わたしはあなたを愛している。わたしはあなたを決して捨てない」というメッセージです。
 どうか、この永遠に変わらない神のみことばを聞くことができますように。みことばを語っておられる永遠の神を、私たちが知ることができますように。