白髪の老人の前では起立せよ      レビ記19章26~32節

2020年10月4日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

【序】
 コロナ禍の中にあり、人との距離を取らなければならない中にあって、神様のことを考えたり、神様とともに過ごしたりする時間は増えたでしょうか。人間は自分勝手な生き物です。何でも自分の思った通りにいかないと満足できないところがあります。しかし、様々な痛みと苦しみの中で神様を意識すると、深い慰めを感じます。そして神様が自分のために関わって下さり、導いて下さる祝福の人生が開かれていることに目が開かれていきます。
 イスラエルの民は約束の地を目指して旅をしていました。彼らを導いていたのはもちろん神様です。神様が彼らを約束の地・カナンまで確実に導き、その地を祝福したいと考えていました。つまり、神様のご計画の中で歩む者として彼らを導いて下さっていたのです。信仰者の歩みが幸いなのは神様のご計画の中を歩ませていただけることです。自分の計画の中に神様を引き寄せようとするところから、様々な苦しみが生まれてくるように思います。

【1】 異教世界の中にあって守られるように
 本日の個所にはイスラエルの民が約束の地・カナンに入った後に気を付けなければならないことが命じられています。様々な掟が命じられていますが、これらを一言で言うならば「異教世界の風習を真似てはならない」ということになります。特に偶像礼拝の禁止が命じられています。約束の地・カナンは「乳と蜜の流れる」豊穣な地でしたが、同時に、様々な神々が崇められる異教世界でした。あらゆる習慣が偶像礼拝と結び付けられていました。イスラエルの民がその世界に入っていった際に、異教的習慣に影響されることがないようにと、神様はここであらかじめ命じられたのです。
 それらの内容は①まじないや占いの禁止(26)、②異教的な風貌を真似ることの禁止(27)、③死人のために身体を傷つけることの禁止(28)、④娘に淫行をさせることの禁止(29)、⑤霊媒や口寄せを頼りにすることの禁止(31)、でした。ここに記される習慣はすべてカナンの地に住む人々の間で行われていた習慣で、そのすべてが偶像礼拝や異教の宗教儀式と結びついていたと考えられます。
 神様に選ばれ聖なる民とされたイスラエルにとっても、この地における誘惑はとても大きいものでした。なぜならば人は周りの環境に影響されやすい存在だからです。現代に生きる私たちも変わりません。今の私たちにとっての偶像とは何でしょうか。黙示録には終末時代に大バビロンと大淫婦が現れて、人間の心を虜にする様子が描かれています(黙示録17章)。それは富と快楽の象徴です。現代の私たちの価値観の多くは、この富と快楽の影響に汚染されています。その中にあって私たちはまことの神を恐れなければなりません。

【2】 安息日を守る
 このような異教世界の中にあって私たちはどのように神を恐れ続けることができるでしょうか。第一に安息日を守ることです(30)。私たちはなぜ安息日を聖別する必要があるのでしょうか。それは神の聖所を恐れるため、つまり神に対する恐れを失わないためです。
自らを偶像礼拝から守り、真の神様に真実な礼拝を献げるために、安息日が大事であることは、既に3~5節で確認されていたことです。ここではやがて入植することになるカナンの地の状況が意識された上で、再度、この掟が繰り返されています。
私たちは時間を神様のために聖別し、安息日を守ることによって、初めて神を恐れ、この世の様々な影響から守られるのです。

【3】 高齢者を敬う
 神を恐れるために、もう一つここで命じられていることは高齢者を敬うということです。「あなたがたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬いなさい」(32)と命じられました。それも実は神を恐れるためであったことがわかります。
 「白髪」とは私たちにとっては老いと弱さの象徴です。しかし聖書で白髪は「栄えの冠」です(箴言16の31)。人間の老いや弱さを見つめる上で、この世とは全く違う価値観が聖書から発せられていることがわかります。
 現代の日本の社会を見ていてとても残念に思うことは、高齢者が粗末に扱われているということです。私たちの国はどうしてこのような国になってしまったのでしょうか。それは戦後の日本が、強い人、社会に貢献できる人、活躍できる人のための社会を築いてしまったことと関係があるのではないかと考えられます。弱い人、社会の役に立たない人、活躍できない人の中に、この国は価値を見出せなくなってしまっているのです。その土台となっているのは人間そのものではなく、人間に付随する力や能力によって人間の価値が量られてしまう考え方です。
 聖書は人間について何と教えているでしょうか。一人ひとりが神によって造られたかけがえのない存在です。「神のかたち」として造られた尊い一人ひとりです。私たちは白髪の老人の前で起立しなければなりません。弱さを覚える高齢者を敬うことで、神を恐れることができるのです。

【祈り】異教世界の中で安息日を守り、高齢者を敬い、神を恐れることができますように。