たとえ皆がつまずいても     マルコの福音書14章27~31節

2021年1月31日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 聖書が多くの人々の心を惹きつけて離さないのは、そこに神の素晴らしさが表わされているから、さらに、変わらない人間の生身の姿が記されているからです。私たちは聖書の登場人物たちの姿の中に、私たち自身の姿を見ます。今日の箇所に記されるペテロの姿も然りです。
 
【1】 イエスの予告「あなたがたはみな、つまずきます」
 エルサレムでの最後の晩餐を終えてオリーブ山へ移動する途中、イエス様は弟子たちに言われました。「あなたがたはみな、つまずきます。」 その上でゼカリヤ書13章7節のみことばを引用しながら、それが、旧約聖書の預言の成就であることを示しました。
 つまずくのはペテロだけではありません。弟子たち全員がつまずくことが予告されました。そして本当にその通りになりました。主が羊飼いであるイエス様を打たれると、羊である弟子たちは散らされてしまいました。皆、恐ろしくなって逃げてしまったのです。
 最後の晩餐の記事を中心に、その前には「裏切りの予告」があり(18)、その後には「つまずきの予告」がありました。十字架に向かって行かれるイエス様の真剣な姿と、それを受け止められない弟子たちの姿が対照的に示されています。

【2】 ペテロの応答「私はつまずきません」
 イエス様のそのことばを聞いて、ペテロが反応しました。「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」 明らかにペテロは他の弟子たちと比較して、自分は大丈夫だと主張しています。そして、あたかも他の弟子たちはつまずく可能性がある、とほのめかしています。そのことばを他の弟子たちがいる前で、イエス様に語りました。彼らはペテロのこのことばを聞いてどう感じたでしょうか。複雑な気持ちになったに違いありません。
 こんなペテロのことば遣いから、当時の弟子たちの複雑な関係が垣間見えるようです。実は彼らは最後の晩餐の席上で「自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか」という議論を交わしていました(ルカ22の24)。ペテロのその時の反応にも、他の弟子たちに負けたくない、という気持ちがこめられていたのかもしれません。
 そのペテロに対してイエス様はさらに具体的な予告をしました。「今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」 するとペテロは「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と、力を込めて言い張りました。すごい自信です。すると、他の弟子たちも同様な応答で続きました。ペテロに負けたくなかったのでしょう。
 しかし、私たちはこの後の展開を知っていますので、これが彼らのうぬぼれであることがよくわかります。正直で、熱心だったかもしれません。しかし、自分自身の弱さに全く気付いていない点では皆同じでした。
 私たちもペテロやその他の弟子たちと同じではないでしょうか。自分のことばかり考えているようで、実は自分のことが何もわかっていません。自分の弱さをとても認めることができません。弱さをどこかで意識するからこそ、強がってしまうのかもしれません。そして、私たちも失敗してしまうのです。

【3】 イエスの導き「あなたがたより先に、ガリラヤに行きます」
 イエス様は弟子たち以上に、弟子たちのことをよく理解していました。今は自信過剰になっている弟子たちが皆、自分を見捨てて逃げていってしまうことをイエス様はよくご存知だったのです。
 その上でイエス様はそんな弟子たちのために死のうとされました。ですからイエス様の弟子たちに対して語られたことばは、決して攻撃的でも叱責するような言い方でもなかったと思います。すべてを理解し、すべてを受け入れた上での愛に満ちたご指摘だったと思います。
 しかもイエス様は、「しかしわたしは、よみがえった後、あなたがより先にガリラヤに行きます」と語り、弟子たちのその後のこともちゃんと考えておられました(28)。イエス様は十字架で死なれた後、復活され、そしてガリラヤに先に行って待っていると言うのです。一度挫折を味わい、自信を失ってしまった弟子たちを、イエス様は尚も受け入れ、もう一度用いられようとされました。
 ガリラヤとは弟子たちの出身地であり、そこでイエス様と出会い、イエス様によって訓練された場所です。つまり彼らにとって信仰の原点とも言える場所が、彼らにとっての再出発の場所になっていきます。すべては主のご計画の中にあることなのです。
 
【4】 結び
 私たちも皆、弱さを抱えている一人ひとりです。私たちの主はそのことをよくご存知です。その上で、そんな私たちのために死んで下さり、さらに私たちを受け入れ、用いようとされるのです。
主の前に強がる必要は一切ありません。むしろ、そんな私たちを主は用いて下さいます。主の恵みは私たちに十分にあり、主の力は私たちの弱さのうちに完全に現わされるからです。是非、弱さの内に、主に拠り頼む者となりましょう。