過越の準備         マルコの福音書14章12~16節

2021年1月17日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

【1】 緊迫した雰囲気の中で
 本日の聖書の出来事は「種なしパンの祭りの最初の日、すなわち、過越の子羊を屠る日」に起こりました。それはイエス様が十字架に架けられる日の前日に当たります。イエス様の十字架が、もう迫っていました。
 過越の祭りはユダヤ三大祭りの一つであり、各地に離散していたユダヤ人たちも皆、この祭りの時には集まってきましたので、この時のエルサレムは人々でごった返し、祭り特有の高揚感で満ちていたことでしょう。
 同時に裏では、イエス様を殺害する計画が着々と進んでいました。祭司長たちと律法学者たちは、イエスをだまして捕らえ、殺すための良い方法を探していました(1)。ただ民衆の圧倒的支持を得ているイエス様です。民が騒ぎを起こすことを心配して、祭りの間にイエス様を捕らえることに、彼らにも慎重でした(2)。ところがユダの裏切りによって事態は急変します。何とイエス様の弟子の一人であったイスカリオテのユダが、祭司長たちにイエスを引き渡す提案をしてきたのです。事態は急速に動き出し、危険がイエス様に迫ってきました。
 このような緊迫した状況の中で、イエス様は弟子たちとの最後の食事を準備されました。その食事をイエス様は切に願っていました(ルカ22の15)。弟子たちと最後の時を過ごすため、そして、そこで大切なメッセージを彼らに伝えるためです。イエス様の苦しみについて全く理解できていない弟子たちです。しかし、それでもイエス様は彼らと過ごすひと時を求められました。それゆえに最後の晩餐の場所は、注意深く確保される必要があったのです。
 弟子たちとの交わりを求めておられたイエス様は、私たちとの交わりをも求めておられます。どんな状況の中にあっても、危険の中にあっても、私たちを同じテーブルへと招いて下さっているのです。
 
【2】 神の定められた時の中で
 それまでイエス様の宣教活動の中心はガリラヤ湖周辺のガリラヤ地方でしたが、この時、イエス様は弟子たちを伴ってエルサレムにやって来ました。過越の祭りに参加するためでしたが、同時に、十字架に架かるためです。
 イエス様はこの過越の祭りがご自分にとって、神の定めの時であることを理解していました。過越の祭りとは、イスラエルの民がエジプトから救われたことを記念する祭りです。一匹の子羊が屠られて、流されたその血を家の鴨居や柱に塗り付けることによって、民は守られ救われました。神がその血を見て、その家を過ぎ越されたからです。その経験を決して忘れないようにイスラエルの民は歴史の中で、毎年、この祭りを祝い、記念し続けてきました。
 しかしこの年の過越を通して、全世界の人々のための救出が今、なされようとしていること、そのために子羊の尊い血が流されようとしていること、かつて屠られた子羊の血によってイスラエルの民が救われたように、自らが犠牲の子羊となって主の御前に献げられ、屠られ、血が流されることによって、信じる民が救われることをイエス様はご存知だったのです。イエス様は自らの時をよく理解していました。弟子たちは、人間が作り出す、この世の時の中を歩んでいましたが、イエス様は弟子たちと同じ時を共有しながら、同時に神の定めの中を歩んでいたことがわかります。
 今はどのような時でしょう。コロナの影響下にあって世界中の人々が苦しんでいる今の時は、神様のご計画の中にあって、どのような時でしょうか。私たちは与えられた人生の時間の中を歩みながら、同時に神様のご計画という時間の中で生かされていることを覚えたいと思います。

【3】 主権者なるイエス
 弟子たちはイエス様に尋ねました。「過越の食事ができるように、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。(12)」 当然のことですが、弟子たちには先が見えていません。そんな弟子たちに向かってイエス様は不思議な指示を与えられました。都に入ると、水がめを運んでいる人に出会うから、その人についていくと、場所がちゃんと示される。遣わされた二人の弟子が実際にそのように行動してみると、本当にイエス様の指示通りになりました。
 エルサレムに入城する際にロバを確保した際も、同じようなことがありました。弟子たちがイエス様の指示通りに従った時に、ちゃんとロバが確保され、エルサレム入城の準備ができたのです(11の1~7)。弟子たちはイエス様の指示に間違いがないことを、この二つの経験を通して教えられました。なぜならばイエス様は神の時の中を歩み、先のことをご存知だからです。
 今のこの世も先が見渡せない時代です。一寸先は闇です。様々な危険に満ちています。そんな中にあって大事なことは何でしょうか。イエス様に尋ねることです。イエス様が私たちの進むべき道を照らして下さいます。「人の歩みは主によって定められる。人はどうして自分の道をさとることができるだろう。(箴言20章24節)」 私たちの歩みを定めて下さるのは私たちの主です。その主に遠慮せずに尋ね求めようではありませんか。主が備えられる道を歩んでいこうではありませんか。

【祈り】暗い世の中にあって、私たちの進むべき道を照らして下さい。